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花降る檻―明治を生きた遊女の矜持―
花降る檻―明治を生きた遊女の矜持―
Author: 佐薙真琴

第一章 売られた日―一八六三年、冬

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-05 05:50:31

プロローグ 灰の記憶

 灰が舞っている。

 明治九年、冬の夕暮れ。墓地に立つ女の手から、黒い紙片が風に溶けていく。燃え尽きた過去が、赤く染まる空へと昇っていく。

 女の名は蘭香。かつて吉原で「蘭の君」と呼ばれた花魁である。

 彼女の指先には、まだ熱が残っている。母の手紙を焼いた熱が。自分の出生を証明する唯一の文書を灰にした熱が。

 なぜ彼女は、自らの正当性を証明する武器を手放したのか。

 その答えは、十三年前の冬に始まる。十二歳の少女が、初めて地獄を見た日に。

第一章 売られた日―一八六三年、冬

 雪が降っていた。

 信州の山村から江戸への道は、凍てついた白一色に覆われていた。荷車の軋む音だけが、静寂を破っている。

 荷台の隅で、お蘭は震えていた。寒さのためだけではない。恐怖が、十二歳の身体を内側から凍らせていた。

「泣くんじゃないよ」

 隣に座る女衒の声は、妙に優しかった。それがかえって不気味だった。

「いい所に行くんだからね。吉原っていう、江戸で一番華やかな場所さ。お前みたいな器量よしなら、きっと可愛がってもらえるよ」

 お蘭は何も答えなかった。答える言葉を知らなかった。

 三日前まで、彼女は普通の農家の娘だった。貧しくとも、家族がいた。父と母と、幼い弟が二人。

 そして飢饉が来た。

 凶作は二年続いた。村人の半分が餓死した。お蘭の家も例外ではなかった。ある朝、父が言った。

「蘭。お前には辛い思いをさせるが……」

 父の目には涙があった。母は泣き崩れていた。弟たちは、何が起きているのか理解できず、ただ怯えていた。

「弟たちを生かすためだ。許してくれ」

 翌日、女衒が来た。父は五十両を受け取った。お蘭は、自分の値段を知った。

 荷車が止まった。

「着いたよ」

 女衒の声で、お蘭は現実に引き戻された。目の前には、想像を絶する光景が広がっていた。

 大門。

 吉原遊郭の入口は、まるで異世界への扉のようだった。昼間だというのに、無数の提灯が灯り、三味線の音色が聞こえてくる。華やかな着物を纏った女たちが、格子の向こうで微笑んでいる。

 しかしお蘭には、その微笑みの下にある絶望が見えた。

「さあ、降りな」

 女衒に促され、お蘭は荷台から降りた。足が震えた。逃げたかった。しかし、どこへ? 故郷には戻れない。戻れば、弟たちが死ぬ。

 彼女は歩き始めた。大門をくぐり、遊郭の世界へと足を踏み入れた。

 連れて行かれたのは「扇屋」という妓楼だった。

 玄関で待っていたのは、四十代ほどの女性だった。太った体に派手な着物を着て、鋭い目でお蘭を値踏みするように見つめた。

「これが新しい禿かむろかい」

「へえ、器量はいいでしょう」

 女衒が媚びるように言った。

「まあね。骨格がいい。育てば化けるかもしれないね」

 女は楼主の妻、お絹だった。扇屋の実質的な支配者である。

「名前は?」

「お蘭と申します」

 お蘭は震える声で答えた。

「蘭ねえ…… 悪くないね。じゃあそのままでいいよ。今日からお前は扇屋の禿だ。分かるかい?」

「は、はい……」

「返事は『はい』じゃない。『へえ』だよ。それから、ここでは敬語は使わない。女郎言葉を覚えな」

 お絹は冷たい声で続けた。

「お前の年季は十五年。二十七になるまで、ここで働くんだよ。その間に稼いだ金で、お前を買った五十両を返す。利子も付くからね。それが済むまで、お前は扇屋のもんさ」

 十五年。

 お蘭の頭の中で、その数字が反響した。十二歳から二十七歳まで。人生の大半を、この地獄で過ごすのか。

「泣くんじゃないよ」

 お絹の声が、さらに冷たくなった。

「泣いたって何も変わらない。ここは泣く場所じゃない。笑う場所さ。客に夢を売る場所だ。分かったら、さっさと着替えな」

 その夜、お蘭は初めて遊郭の夜を見た。

 禿部屋と呼ばれる狭い部屋に、同じ年頃の少女が七人詰め込まれていた。皆、お蘭と同じように売られてきた娘たちだった。

「あたしはお梅だよ。よろしくね」

 一人の少女が話しかけてきた。明るい声だったが、目は笑っていなかった。

「お蘭です……」

「信州から来たんだって? あたしは越後さ。去年の今頃、ここに来たんだ」

「ここは…… どんな所なんですか?」

 お蘭の問いに、お梅は少し黙った。そして小さな声で言った。

「地獄だよ。でも、生き延びる方法はある」

「生き延びる……?」

「そう。ここで死ぬ娘もいるけど、生き残る娘もいる。違いは何だと思う?」

 お蘭は首を傾げた。

「諦めないことさ」

 お梅は微笑んだ。今度は本当の笑顔だった。

「あたしたちは、売られた。それは変えられない。でも、どう生きるかは、まだ決まってない。あたしは、絶対にここから出る。そのために、今は我慢するんだ」

 その言葉が、お蘭の心に火を灯した。

 そうだ。私は、まだ生きている。心臓が動いている。頭が働いている。

 ならば、諦める必要はない。

 翌朝から、お蘭の修行が始まった。

 禿の仕事は多岐にわたった。花魁の身の回りの世話、客の接待の手伝い、掃除、洗濯、使い走り。朝から晩まで働き詰めだった。

 しかしお蘭は、ただ働くだけではなかった。

 彼女は観察していた。

 扇屋には、位の異なる女郎が三十人ほどいた。最下層の「座敷持ち」から、中堅の「呼び出し」、そして頂点に立つ二人の花魁まで。

 お蘭は気づいた。この世界にも、階層がある。そして階層には、ルールがある。

 ルールを理解すれば、生き延びられる。いや、それ以上のことができるかもしれない。

 彼女は耳を澄ませた。

 客たちの会話を。

「……幕府はもう長くないな」

「ああ。攘夷派の勢いが増している。いずれ戦が始まるだろう」

「となると、米相場はどう動く?」

「上がるだろうな。戦の前は必ず物価が上がる」

 お蘭は、その会話を一言一句記憶した。

 意味は分からなかった。しかし、いつか分かる日が来ると信じた。

 ある夜、お蘭は初めて花魁を間近で見た。

 扇屋の看板花魁、葵太夫だった。

 二十五歳。吉原全体でも五本の指に入ると言われる名妓だった。その美しさは、お蘭の想像を超えていた。

 漆黒の髪に金銀の簪。白い肌に紅い唇。絹の着物は、夜空に咲く牡丹のようだった。

 しかし、お蘭が最も驚いたのは、その眼差しだった。

 葵太夫の目には、諦念があった。深い、深い諦めが。

 彼女は美しい人形だった。笑顔も、仕草も、言葉も、すべて計算され尽くしていた。しかしその奥に、人間の魂はもう残っていないように見えた。

「あの方は、あと二年で年季が明けるんだよ」

 お梅が囁いた。

「でも、出られないんだ」

「なぜ?」

「借金が増え続けているから。着物代、化粧代、部屋代…… 全部、借金に上乗せされる。どんなに稼いでも、返せない仕組みになってるのさ」

 お蘭の背筋が凍った。

「つまり……」

「そう。一生、ここから出られない」

 その夜、お蘭は眠れなかった。

 葵太夫の諦めた目が、脳裏に焼き付いていた。

 私も、いつかあんな目になるのだろうか。

 いや。

 お蘭は拳を握った。

 私は、諦めない。絶対に、ここから出る。

 そのためには、ただ従順に働くだけでは駄目だ。この世界のルールを学び、それを利用しなければ。

 お蘭は決意した。

 情報を集めること。客たちの会話を記憶し、世の中の動きを理解すること。そして、自分を単なる「商品」ではなく、「価値ある存在」にすること。

 それが、彼女の戦略の始まりだった。

 冬が過ぎ、春が来た。

 お蘭は禿としての仕事をこなしながら、密かに学び続けた。

 客の会話から、政治を学んだ。経済を学んだ。人間関係の機微を学んだ。

 そして、彼女は気づいた。

 この遊郭は、情報の宝庫だということに。

 吉原には、幕府の高官、豪商、武士、文人、あらゆる階層の男たちが集まる。彼らは酒に酔い、女に甘え、本音を漏らす。

 その情報は、使い方次第で武器になる。

 お蘭は、十三歳にして、情報の価値を理解した少女だった。

 そして一年が経った。

 一八六四年、夏。

 お蘭は十三歳になった。禿としての仕事にも慣れ、周囲から一目置かれる存在になりつつあった。

 ある日、お絹が彼女を呼んだ。

「蘭。お前、頭がいいんだってね」

「へえ…… そんなことは……」

「謙遜しなくていいよ。葵太夫が褒めてたよ。客の顔と名前を一度で覚えるし、気が利くってね」

 お絹は珍しく、柔らかい表情を見せた。

「お前を、振袖新造に上げることにしたよ」

 振袖新造。禿の次の段階だった。

「ありがとうございます」

「礼はいいよ。お前には期待してるからね。いずれは葵に並ぶ花魁にしたいと思ってる」

 お絹の言葉に、お蘭は複雑な思いを抱いた。

 期待されることは嬉しい。しかし、それは同時に、この世界に深く組み込まれることを意味する。

 葵太夫のように、一生ここから出られなくなるかもしれない。

 しかしお蘭は、表情を変えなかった。

「精一杯、努めます」

「よし。その意気だよ」

 その夜、お蘭は一人で考えた。

 振袖新造になれば、客との距離が近くなる。より多くの情報に触れられる。

 それは機会だ。

 私は、この機会を最大限に活用する。そして必ず、ここから出る方法を見つけ出す。

 お蘭の目に、新しい光が宿った。

 諦念ではない。希望でもない。

 それは、冷徹な決意の光だった。

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